往生と成仏 この世とあの世の2元論

このブログを書くに当たっていろんな本も読んだりするのですが、平凡社新書に『葬式仏教の誕生〜中世の仏教革命〜 』(松尾剛次著)という本があって、そこに「二次元的世界観の成立」という章がありました。

そこでは、中世以前の日本人の「あの世」観について梅原猛の『日本人の「あの世」観 (中公文庫) 』から引用し、「ようするに、この世とあの世とが区別されず、この世の延長線としてあの世が捉えられていたと考えられている。」と書かれていました。

そして続いて「中世になると、極楽浄土とか兜率天浄土 (とそつてんじょうど)といった、この世とは全く別の世界として「あの世」が考えられるようになった。」

と中世を機に日本人の発想の転換として「この世の延長ではないこの世と隔絶したあの世がある」と認識されるようになったと説明がありました。

これを読んで当時の人にはやはり極楽浄土という場所のインパクトはかなり大きかったのだろうなと思いました。浄土教が未だに日本で廃れないのもこのインパクトのおかげなのでしょう。

ちなみにタイトルの「往生と成仏」ですが、成仏とは仏教徒が目指す所の修行をして仏になることを意味するのに対して、往生とは成仏のための修行をするのに理想的な環境の浄土に生まれていくことを意味します。

先程の説明を踏まえると「往きて生まれる」往生という言葉の別世界観をしみじみと味わえるのではないでしょうか?

そして、兜率天浄土というのは日本で極楽浄土と肩を並べる2大浄土のうちのひとつです。弥勒菩薩の浄土です。

この浄土ですが、中国で様々な仏国土のことを浄土と称するようになりました。上座部仏教では仏国土を釈尊が生誕し仏陀となったこの現世界に限っており、一仏には一国土しかありえないと考えていました。しかし、大乗仏教では他方に複数かつ無量の仏国土があり、それぞれに仏が住在して活動していると説いています。

当時は肩を並べていた兜率天浄土も今はあまりメジャーではなく「極楽浄土=お浄土」みたいに日本ではなっていますね。